「ながら視聴」は可処分時間を増やしてくれるのか

こんにちは、コイケです。

 

最近、声のブログことVoicy(ボイシー)にめちゃくちゃハマってて、

ツイッター上で「Voicy3行まとめ」とかやってます。

そんなお金にもならないこと、よくやってるなあと思われそうですが、

アウトプットを前提にVoicyを聴くと、ただ漠然と聴くよりも頭に入ってくるんですよね。

あと純粋にVoicyが面白いから、ただ「ぼくは聴いたよ!」っていうログを残したいっていう気持ちがあります。

 

 

昔からテレビよりもラジオとかの音声メディアが好きで、

音声だと「ながら視聴」ができるところがすごく効率的で特に大好きです。

 

ラジオ聴きながらお皿洗ったりしてると、

なんだか人の2倍くらい効率的に生きれてる気がして、

ちょっぴりお得な気分になれるのが嬉しいですよね。

 

そんなラジオっ子なぼくだったので、ショートラジオ的な音声メディアVoicyにもすぐにハマっちゃいました。

 

 

ただ、Voicyを聴いてて最近思うのですが、

「ながら視聴」って何気に難しくないですか?

 

例えば、皿洗いみたいな単純作業とか、

朝の通勤電車に乗ってる時間とか、

特に頭を使ってない時の「ながら視聴」なら余裕なんですが、

 

パソコン触ってる時とか、

本を読んでる時とか、

頭を使ってるときのながら視聴が全くできません。

 

ちょっとでもパソコンに集中しちゃうと、もうVoicyで何言ってたのか聴き逃しちゃう。

 

 

結局「音声メディアはながら視聴が最高!」とか言ってても、

人間の脳みそは一つしかないのです。

 

視覚からの言語情報と、聴覚からの言語情報を同時に処理するなんて、

到底不可能な芸当なんだとつくづく感じています。

 

今後スマートスピーカーの普及とともに音声メディアが再評価されて、

「ながら視聴」が当たり前の世の中になったとしても、

結局人間の意識は一つしかないので、所詮は「音声メディアと視覚メディアの切り替えが早くなる」っていうだけ。

 

CPUを増設しない限り、人間が本質的にマルチタスクができることはなさそうです。

 

世の中には「可処分時間」という言葉があって、

1日24時間のうち自由に使える時間のことを指すらしいのですが、

今は「いかにユーザーの可処分時間を奪うか」みたいな競争がエンターテイメント界隈で当たり前になっているようです。

 

時は金なりと言いますが、

時間がますます価値の尺度として使われる社会になってきました。

 

「ながら視聴」が可処分時間を2倍濃密にしてくれるイノベーションだったら良かったのですが、

そうはいかなそうなので、「自分はどのメディアに時間を使うのか」を意識しながら、

可処分時間の消費先を大切に選びながら生きていきたいと思います。

 

ではでは。

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